寄稿文

巻頭言

半月ほど前、知り合いの先生が出演するという某討論番組の公開収録に参加したときのことである。聞けば、今回の討論のテーマは「文化と効率性」というもので、普段は東京で行われているものを、京都に場所を移しての収録ということであった。議論が後半に差し掛かったところで、出演者の一人の先生が真木悠介氏の『時間の比較社会学』を取り上げた。その先生曰く、「有用性」と「至高性」という二つの観点から、効率性に縛られる現代は「有用性の檻」に囚われた直線的な時間に支配されている、と。一方で、その檻から開放された自由な時間を取り戻すことが、人間の幸せ、すなわち「至高性」に繋がるといった主張をしていて、それが印象に残ったのを覚えている。ただ、個人的には、そこから京都の地域性に着目して、「祭り」の話題に飛ばなかったことが少々残念であった。

京都という土地は、古来より受け継がれてきた葵祭や祇園祭といった三大祭りに代表されるように、「祭り」というものについて他の都市や地域の追随を許さない拘りを持つ。もちろん、これらの祭りがそもそもの由来として祈願的な意味合いによるものであることは確かである。しかし、それでも「祭」と付くからには、単なる儀式ではない、ハレの楽しみとしての側面があることには疑いようがない。くわえて、「祭り」というものが、本来、効率とは無縁であるという点も見逃せない。準備や祭事にかかる手間は、むしろ無駄と言ってよい。だが、この一見無駄に見える祭りを大切にする風土こそが、効率を追求する都市という存在でありながら、多くの人を呼び寄せる京都という街の魅力を根底から支えているのではないかとさえ思うのだ。おそらく、効率のみを追わず、無駄を楽しむ余裕があるからこそ、人は惹きつけられるのである。

さて、翻って熊野寮祭である。今でも、その伝統が息づいていることをとても嬉しく思う。今年も多くの寮生、地域の方々、その他の関係者が一週間近くにわたる非日常を楽しむことだろう。しかし、ここで一旦、立ち止まって考えて欲しいことがある。寮祭にあたって義務感に追われていないだろうか。日常が忙しいからと面倒に感じていないだろうか。かたや、これは伝統だからと、自分たちの気持ちとは関係なく続けているものがないだろうか。もし、そのような考えがあるとしたら、それはあなたが「有用性の檻」に心の随まで捕らわれている証拠である。祭りとはもっと自由であるべきで、とくに熊野寮祭は、もともと自由を楽しみ、日常から脱するための場であったはずだ。そこを是非思い出してほしい。

寮祭のトップを飾る言葉にしては、いささか硬いものになってしまったと反省している。けれども、この頁よりあとは自由と非日常が広がっている。どうか、得になるとか、役に立つとかいった考えから解放された、やりたいことをやる自由で無駄な時間を謳歌してほしい。それでは、良い寮祭を!

1996年入寮 国際高等教育院 准教授 金丸 敏幸

2016年 熊野寮祭パンフレットより引用